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謹賀新年 天皇杯決勝


明けましておめでとうございます。

新年は毎年恒例、天皇杯決勝を観る。

日本海側と違って、太平洋側、東京は穏やかな元日となった。

決勝はなんだか準決勝から、審判の判定に助けられてきた感じの鹿島アントラーズと、今季限りでの退任が決まった長谷川健太監督率いる、清水エスパルスの対戦。

遅めの朝食をとって、遅めの昼食として雑煮なんぞ食べながら、決勝のキック・オフを見守る。

正直、どっちのファンでもないので、久しぶりにサッカーの試合を観戦自体を楽しもうかと。

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イングランドのGKが背負うもの (2010年W杯南アフリカ大会、イングランド) [サッカー・コラム]


その日のBBCラジオ・ニュースアナウンサーはこういった。

「今日はグリーン選手の家族は、新聞を読まない方がいいと思います」

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デンマークと和歌山県 (2002年W杯日本・韓国共催大会) [サッカー・コラム]


2002年W杯に向けて、大会前のプレ・キャンプ地を日本の和歌山県(和歌山市)に選んだデンマーク

彼らが大阪の関西国際空港に降り立ち、キャンプ地へ向かうバスへと乗り込もうとしていた時、彼らに意外な光景が目に入ってきた。

日本の青年たちが、デンマーク語で書かれた「Kom sa!! DBU's Landshold (頑張れ!!デンマーク)」の横断幕を広げて待っていたのである。

これに選手たちはまったく仰天した。遠く離れた異国の地で、異国の人間が自分たちを応援しているのだから。

日本の青年たちは、和歌山県の日高・美浜商工会の青年部の面々だった。

彼らがここまでしてデンマークを歓迎、応援するのには理由があり、また、デンマークがキャンプ地に和歌山県を選んだことには因縁があった。

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タグ:コラム W杯
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ポール・ランバート [スコットランド選手名鑑]


ポール・ランバート(代表、ブログ).gif フルネーム ポール・クリストファー・ランバート
         Paul Christopher Lambert
 国籍     スコットランド
 生年月日  1969年8月7日
 出身地    ペイズリー
 ポジション  守備的MF
 身長、体重  178cm、70kg
 代表出場数  40試合、1得点

 


所属クラブ
1985‐86 セント・ミレン (SCO/1-0)
1986-87 セント・ミレン (SCO/36-2)
1987-88 セント・ミレン (SCO/36-2)
1988-89 セント・ミレン (SCO/16-2)
1989-90 セント・ミレン (SCO/25-3)
1990-91 セント・ミレン (SCO/31-2)
1991-92 セント・ミレン (SCO/40-2)
1992-93 セント・ミレン (SCO/39-1、2部)
1993-94 セント・ミレン (SCO/3-0、2部)、マザーウェル (SCO/32-3)
1994-95 マザーウェル (SCO/36-1)
1995-96 マザーウェル (SCO/35-2)
1996-97 ボルシア・ドルトムント (GER/31-3)
1997-98 ボルシア・ドルトムント (GER/13-1)、セルティック (SCO/26-2)
1998-99 セルティック (SCO/33-1)
1999-00 セルティック (SCO/25-1)
2000-01 セルティック (SCO/27-1)
2001-02 セルティック (SCO/34-5)
2002-03 セルティック (SCO/30-3)
2003-04 セルティック (SCO/14-1)
2004-05 セルティック (SCO/4-0)
2005-06 リヴィングストン (SCO/7-0)
W杯出場
1998年 (1次リーグ敗退、3試合出場)
タイトル
1986-87 スコットランド・カップ優勝
 以上、セント・ミレン
1996-97 欧州チャンピオンズ・リーグ優勝
 以上、ボルシア・ドルトムント
2002-03 UEFAカップ準優勝
1997-98、2000-01、2001-02、2003-04 スコットランド・リーグ優勝
2000-01、2003-04、2004-05 スコットランド・カップ優勝
1997-98、1999-2000、2000-01 スコットランド・リーグカップ優勝
 以上、セルティック



地味ながら堅実な働きを見せる、守備的MF。ジョン・コリンズと同じく大陸に渡った。

セント・ミレンで28年ぶりのカップ優勝を遂げると、アレックス・マクレイシュ率いるマザーウェルへ。存在感のあるプレイで、1994-95シーズンでは、見事リーグ2位に食い込み、かつてマザーウェルの黄金期であった1930年代前半以来、約60年ぶりの快挙だった。

やがてフリー・ランスでドイツ・ブンデスリーガに活躍の場を求め、ボルシア・ドルトムントへ。そこでは、パウロ・ソウザとダブル・ボランチを組み、後方のマティアス・ザマー、ユルゲン・コーラー、ジュリオ・セザールらと守備陣を構成した。リーグは3位に終わったが、欧州チャンピオンズ・リーグ決勝のユヴェントス戦では、司令塔のジネディーヌ・ジダンの抑え役を務め、先制点となる絶妙なクロスをカール=ハインツ・リードレに送った。

選手としての働きは及第点で、ファンにも愛されていたが、妻がドイツの生活になじめないということもあって、母国の名門・セルティックに移籍すると、そのシーズンでリーグ優勝を成し遂げ、レンジャーズのリーグ10連覇を阻止した。2002-03シーズンでは、主将としてUEFAカップ決勝まで進出した。

代表デビューは1995年のキリン・カップの日本戦。1996年欧州選手権ではメンバーに入らなかったが、1998年W杯予選から司令塔ギャリー・マカリスター、ドリブラーのコリンズらの後方でのサポート役として、ほぼ不動の地位を保った。

現役最後となったリヴィングストンでは、選手兼監督として登録しており、その後も指導者の道を進んだ。次に指揮したイングランドのウィコム・ワンダラーズでは、当時プロ・リーグとしては最下層の4部リーグに所属していながら、2006-07シーズンのリーグカップで、プレミアシップのチャールトン・アスレティック、フルハムを破って準決勝へ進み、チェルシー相手に、ホームのアダムズ・パークで1-1で引き分けるという健闘を見せた。(第2戦は0-4で敗退)

因みに、このウィコム・ワンダラーズは、2000-01シーズンのFAカップでも準決勝に進出しており、FAカップ・ジャイアント・キラーズ・アワードを受賞している。

2009-10シーズンから、FL1(3部)のノーウィッチ・シティを率いており、リーグ優勝、チャンピオンシップ(2部)昇格を決めている。

ポール・ランバート(セルティック、ブログ).gif

セルティック時代のランバート。

2002年~2005年まで主将を務めた。

ボルシア・ドルトムントで欧州チャンピオンズ・リーグ優勝を遂げたことによって、英国人として初めて非英国チームで、ビッグ・イヤーを手にした選手となった。


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あってほしくない、神の手 (2010年W杯欧州予選プレイ・オフ フランス-アイルランド) [サッカー・コラム]


神の手。

いわずと知れた、アルゼンチンのディエゴ・マラドーナが、1986年メキシコW杯、準々決勝のイングランド戦の後に、報道陣に言い放った戯言である。(正確には、「あれは神の手と、マラドーナの頭から生まれたゴールだ」と語ったらしい)

このことに対して、あれはリプレイ写真を後から見た人間が騒いでいるに過ぎず、そのときの審判の判断が一応の決着を見る、という意見が妥当であろう。・・・いや、審判の判断については致し方ないにしても、やった本人と、事実、抗議をしていた選手たちには確かに「明らかだった、見えていた」はずであり、どちらにせよ後味の悪いことは否めない。

当時のGKピーター・シルトン曰く、「マラドーナは決して謝らなかった。彼の振る舞いはスポーツマンらしからぬもので、『神の手』などと言わずに正直に白状すべきだった」。

直後の5人抜きゴールも、イングランドのディフェンスフェア過ぎた、というのが個人的な見解。

しかしながら、マラドーナが超一流のサッカー選手であることには変わりはないし、その後の彼の活躍を鑑みれば、明らかなことである。

さて、そのマラドーナ。2005年に地元アルゼンチンのTV番組で、「あのゴールはハンドだった」と認めている。さらに英国の大衆紙『サン』の取材に対し、「もし過去に戻って謝罪できるのであればそうしたい」と謝罪。「だが、ゴールはゴール。アルゼンチンは世界一になったし、私はベスト・プレイヤーになった。私は歴史を変えることなんてできない、私にできることは前進することだけだ」ともコメントしている。

至極、正論である。

時にサッカーは(もちろんサッカーだけではないが)、スポーツの範疇を超えることがあり、代理戦争のような様相を帯びたり、清濁併せ持つ性格が、サッカーの魅力であるといえなくもない。

 

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タグ:コラム W杯
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ジョン・コリンズ [スコットランド選手名鑑]


ジョン・コリンズ(代表、ブログ).gif

 フルネーム ジョン・アンガス・ポール・コリンズ
         John Angus Paul Collins
 国籍     スコットランド
 生年月日  1968年1月31日
 出身地    ガラシールズ
 ポジション   MF(左サイド)
 身長、体重  173cm、71kg
 代表出場数  58試合、12得点

 


所属クラブ
1985-1986 ハイバーニアン (SCO/19-1)
1986-1987 ハイバーニアン (SCO/30-1)
1987-1988 ハイバーニアン (SCO/44-6)
1988-1989 ハイバーニアン (SCO/35-2)
1989-1990 ハイバーニアン (SCO/35-6)
1990-1991 セルティック (SCO/35-1)
1991-1992 セルティック (SCO/38-11)
1992-1993 セルティック (SCO/43-8)
1993-1994 セルティック (SCO/38-8)
1994-1995 セルティック (SCO/34-8)
1995-1996 セルティック (SCO/29-11)
1996-1997 ASモナコ (FRA/28-6)
1997-1998 ASモナコ (FRA/25-1)
1998-1999 エヴァートン (ENG/20-1)
1999-2000 エヴァートン (ENG/35-2)
2000-2001 フルハム (ENG/27-3、2部)
2001-2002 フルハム (ENG/34-0)
2002-2003 フルハム (ENG/5-0)
W杯出場
1990年 (1次リーグ敗退、出場なし)
1998年 (1次リーグ敗退、3試合出場1得点)
タイトル
1994-95 スコットランド・カップ優勝
 以上、セルティック
1996-97 フランス・リーグ優勝
 以上、ASモナコ
1988年 SPFA最優秀若手選手



中盤ならどこでも出来るレフティーのユーティリティー・プレイヤー。スコットランド人では数少ない大陸を知る男。ドリブルが得意で、トリッキーな動きと機を見ての飛び出しなど、攻撃センスは非凡であったが、中盤の底をこなす器用さもあり、また、PK、FKも上手かった。

少年時代はサッカーだけでなくラグビーも嗜み、ジュニア世代の育成機関であるハッチソン・ヴァレーを経て、ハイバーニアンでプロのキャリアをスタートさせた。入団1年目からコンスタントに出場し、やがて1988年にSPFA(スコットランドサッカー選手協会)リーグ最優秀若手選手に選ばれるなど頭角を現すと、名門・セルティックへ移籍する。しかし、時代は宿敵・レンジャーズの黄金期にあり、獲得したのはスコットランド・カップ1度のみだった。

1996年にフリー・ランスでフランスへ渡ると、ジャン・ティガナ率いるASモナコへ移籍する。主に中盤の左サイドで抜群の攻撃センスを見せ、リーグ優勝に大きく貢献した。その後、エヴァートンを経て再び、ティガナのいるフルハムへ。ここではチームのプレミアシップ昇格に貢献した。

1988年に代表デビュー。1998年W杯では、大黒柱のギャリー・マカリスターを負傷で欠いた中盤を支え、ブラジルとの開幕戦では見事にPKを決めている。チーム力の低下した2000年欧州選手権予選では、限られた戦力をよくまとめ、宿敵イングランドとのプレイ・オフまで牽引した。そのウェンブリーでの死闘の後(1-0でスコットランドの勝利)、代表引退を表明した。

現役引退後は、選手時代と同じく、ハイバーニアンで指導者としてのキャリアをスタートさせた。初采配でリーグは6位という結果に終わったが、スティーヴン・フレッチャー、スコットブラウン、スティーヴン・ウィテカーら若手を積極的に起用し、見事リーグカップ優勝に導いている。

ジョン・コリンズ(ASモナコ、ブログ).gif

ASモナコ時代のコリンズ。

1996-97シーズンのUEFAカップで「事実上のファイナル」といわれたインテルとの準決勝まで進んだ。翌シーズン、欧州チャンピオンズ・リーグでも準決勝に進出している。

当時のモナコには、まだ若かりし姿のティエリ・アンリらが名を連ねている。


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ケヴィン・ギャラカー [スコットランド選手名鑑]


ケヴィン・ギャラカー(代表、ブログ).gif

 フルネーム ケヴィン・ウィリアム・ギャラカー
         Kevin William Gallacher
 国籍     スコットランド
 生年月日  1966年11月23日
 出身地    クライドバンク
 ポジション  FW(ストライカー、ウイング)
 身長、体重 175cm、71kg
 代表出場数 53試合、9得点

 


所属クラブ
1983-84 ダンディー・ユナイテッド (SCO/0-0)
1984-85 ダンディー・ユナイテッド (SCO/0-0)
1985-86 ダンディー・ユナイテッド (SCO/20-3)
1986-87 ダンディー・ユナイテッド (SCO/37-10)
1987-88 ダンディー・ユナイテッド (SCO/26-4)
1988-89 ダンディー・ユナイテッド (SCO/31-9)
1989-90 ダンディー・ユナイテッド (SCO/17-1)、コヴェントリー・シティ (ENG/15-3)
1990-91 コヴェントリー・シティ (ENG/32-11)
1991-92 コヴェントリー・シティ (ENG/33-8)
1992-93 コヴェントリー・シティ (ENG/20-6)、ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/9-5)
1993-94 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/30-7)
1994-95 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/1-1)
1995-96 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/16-2)
1996-97 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/34-10)
1997-98 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/33-16)
1998-99 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/16-5)
1999-00 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/5-0、2部)、ニューキャッスル・ユナイテッド (ENG/20-2)
2000-01 ニューキャッスル・ユナイテッド (ENG/19-2)
2001-02 プレストン・ノース・エンド (ENG/5-1、2部)、シェフィールド・ウェンズデイ (ENG/3-0、2部)
2002-03 ハダーズフィールド・タウン (ENG/7-0、3部)
W杯出場
1998年 (1次リーグ敗退、3試合出場)
タイトル
1986-87 UEFAカップ準優勝
 以上、ダンディー・ユナイテッド
1994-95 イングランド・リーグ優勝
 以上、ブラックバーン・ローヴァーズ



ダンディー・ユナイテッドがスコットランドのクラブ史上初めて、UEFAカップ決勝進出を果たした時、ケヴィン・ギャラカーは弱冠20歳で決勝のピッチに立っていた。準々決勝では、ギャリー・リネカー、マーク・ヒューズ、スティーヴ・アーチボルドなど英国勢を擁するバルセロナ戦で貴重な決勝ゴールを決めている。

若くして将来を嘱望される存在で、当時、名将ジム・マクレーンに率いられ、隆盛を誇ったダンディー・ユナイテッドのユースからプロ契約を果たす。

もともとはゴールを量産するストライカーではなく、鋭いドリブル突破が持ち味のウイング、または中盤の選手として起用されることもあった。とはいえ、"マイティ・アトム"の愛称でセルティックで活躍し、クラブ史上6位の得点記録(192得点)を持つ、パッツィ・ギャラカーを祖父にもつギャラカーは、前線に名を連ねるほどの得点力も併せ持っており、コヴェントリー・シティではストライカーとして人気があった。

ブラックバーンがリーグ優勝した際、ギャラカー自身は2度の骨折により1試合しかプレイできなかったが、その出場したクリスタル・パレス戦で決勝ゴールを決めている。この勝利はリーグも終盤になり、激しい優勝争いをしていたチームにとって貴重な勝ち点だった。(事実、これより後の最終節までの5試合は1勝1分3敗という成績で、最終節でマンチェスター・ユナイテッドが星を取りこぼしたおかげで優勝が転がり込んでいる)

転機となったのは1996-97シーズン。ブラックバーンの不動のエースだったアラン・シアラーがニューキャッスルへ移籍すると、クリス・サットンと共に2トップの一角を担うようになり、翌シーズンでは得点王に輝いたサットン(18得点)に次いでキャリア・ハイの16得点をマークした。それは代表でも同様で、決定力不足に泣くスコットランドにあって、1998年W杯予選ではチーム最多の6得点を挙げ、本大会出場に大きく貢献した。

初代表は1988年のコロンビア戦。1992年、1996年欧州選手権で本大会メンバーに選ばれているが、この時はまだ控えの選手に過ぎなかった。エース・ストライカーとして出場した1998年W杯のブラジルとの開幕戦では、優勝候補筆頭を相手に臆することなく立ち向かい、鋭い飛び出しからサンパイオのファールを誘い、見事にPKを獲得している。

現役引退後は、BBC、セタンタ・スポーツ、スカイ・チャンネル、ltvスポーツなどで解説者、ランカシャー・テレグラフでコラムニストなどを務めている。彼の著書『Tartan Turmoil:The Fall & Rise of Scottish Football』は、スコットランド・フットボールの直面する問題を取り上げ、批評家の賞賛を受けている。

ケヴィン・ギャラカー(ブラックバーン、ブログ).gif

ブラックバーン時代のギャラカー。

ブラックバーンではリーグ通算139試合出場(歴代14位)、46得点(歴代3位)の記録を残した。(2010年5月現在)ゴール数は、アラン・シアラー(112得点)、クリス・サットン(47得点)に次ぐ記録である。


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コリン・ヘンドリー [スコットランド選手名鑑]


コリン・ヘンドリー(代表、ブログ).gif

 フルネーム エドワード・コリン・ヘンドリー
         Edward Colin Hendry
 国籍     スコットランド
 生年月日  1965年12月7日
 出身地    キース
 ポジション  DF(センター・バック)
 身長・体重 185cm、86kg
 代表出場数 51試合、3得点

 


所属クラブ
1983-1984 ダンディー (SCO/4-0)
1984-1985 ダンディー (SCO/4-0)
1985-1986 ダンディー (SCO/20-0)
1986-1987 ダンディー (SCO/13-2)、ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/13-3、2部)
1987-1988 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/44-12、2部)
1988-1989 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/38-7、2部)
1989-1990 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/7-0、2部)、マンチェスター・シティ (ENG/25-3)
1990-1991 マンチェスター・シティ (ENG/32-1)
1991-1992 マンチェスター・シティ (ENG/6-1)、ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/30-4、2部)
1992-1993 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/41-1)
1993-1994 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/23-0)
1994-1995 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/38-4)
1995-1996 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/33-1)
1996-1997 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/35-1)
1997-1998 ブラックバーン・ローヴァーズ (ENG/34-1)
1998-1999 レンジャーズ (SCO/19-0)
1999-2000 レンジャーズ (SCO/2-0)、コヴェントリー・シティ (ENG/9-0)
2000-2001 コヴェントリー・シティ (ENG/2-0)、ボルトン・ワンダラーズ (ENG/22-3、2部)
2001-2002 ボルトン・ワンダラーズ (ENG/3-0)、プレストン・ノース・エンド (ENG/2-0、2部)[レ]
2002-2003 ボルトン・ワンダラーズ (ENG/0-0)、ブラックプール (ENG/14-0、3部)[レ]
W杯出場
1998年 (1次リーグ敗退、3試合出場)
タイトル
1994-95 イングランド・リーグ優勝
 以上、ブラックバーン・ローヴァーズ
1998-99 スコットランド・リーグ優勝
1998-99 スコットランド・カップ優勝
1998-99 スコットランド・リーグカップ優勝
 以上、レンジャーズ



1990年代のスコットランド代表では、必ずといっていいほど、最終ラインを統率するブロンドで長髪のコリン・ヘンドリーの姿があった。そのファイティング・スピリットで、自陣後方から睨みを利かせた守備は迫力があり、同じく強烈なキャプテンシーをもつギャリー・マカリスターと共に、スコットランドの屋台骨を支えた。

ハードなマークと強烈なヘディングには定評があり、しばしばセット・プレイでは大きな武器となった。ただ、元はフォワードというだけあって、若手だったマンチェスター・シティ在籍時では、ドリブル突破からの得点も決めることもあった。

ディフェンダーとしての才能を開花させたブラックバーンに再び加入した際、ケニー・ダルグリッシュ監督の下、ディフェンス・リーダーとしてプレミアシップ昇格に貢献。さらに次のシーズンではリーグ2位という成績を残し、迎えた1994-95シーズンではリーグ優勝に大きく貢献した。当時のブラックバーンには、ストライカーで得点王にも輝いたアラン・シアラー、中盤には主将のティム・シャーウッド、そしてヘンドリーという軸を擁していた。

満を持してスコットランドの名門、レンジャーズに移籍するが、怪我で思うようにプレイできず、また、ディック・アドフォカート監督との不仲も取り沙汰されるなど、クラブの華やかなタイトルとは対照的に不遇の時期を囲うことになった。

代表デビューは、1993年のエストニア戦。27歳という遅咲きの代表入りではあったが、それ以後代表には不可欠な存在として、1996年欧州選手権、1998年W杯に出場した。ワールドカップでは負傷のマカリスターに代わり、主将として1次リーグ3試合を戦い抜いた。

現役引退後、指導者の道を進み、ブラックプール、クライドを指揮した。後者では、妻の病気美容形成手術による感染症と言われる)を理由に辞任したが、残念ながら2009年に42歳という若さで亡くなってしまった。妻との間には4人の子供がおり、そのうちのカイル・ヘンドリーは父と同じ道を進み、ブラックバーンに加入している。

コリン・ヘンドリー(ブラックバーン、ブログ).gif

ブラックバーン時代のヘンドリー。

ハード・マーカーで空中戦にも強いヘンドリーは、ブラックバーンではリーグ通算204試合に出場。これはクラブ歴代7位の記録である。(2010年5月現在)

 

 

 

コリン・ヘンドリー(レンジャーズ、ブログ).gif

レンジャーズ時代のヘンドリー。

怪我などもあって思うようにプレイ出来なかったが、国内3冠を達成。試合直後のリーグ優勝セレモニーでは、スーツ姿でカップを掲げたが、そこには満面の笑みをたたえるヘンドリーの姿があった。


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ギャリー・マカリスター [スコットランド選手名鑑]


ギャリー・マカリスター(代.gif

フルネーム ギャリー・マカリスター
        Gary McAllister
国籍     スコットランド
生年月日  1964年12月25日
出身地    マザーウェル
ポジション  攻撃的MF
身長、体重 185cm、72kg
代表出場数 57試合、5得点

 


所属クラブ
1981-1982 マザーウェル (SCO/1-0、2部)
1982-1983 マザーウェル (SCO/1-0)
1983-1984 マザーウェル (SCO/21-0)
1984-1985 マザーウェル (SCO/35-6、2部)
1985-1986 マザーウェル (SCO/1-0)、レスター・シティ (ENG/31-7)
1986-1987 レスター・シティ (ENG/39-10)
1987-1988 レスター・シティ (ENG/42-9、2部)
1988-1989 レスター・シティ (ENG/46-11、2部)
1989-1990 レスター・シティ (ENG/43-10、2部)
1990-1991 リーズ・ユナイテッド (ENG/38-2)
1991-1992 リーズ・ユナイテッド (ENG/42-5)
1992-1993 リーズ・ユナイテッド (ENG/32-5)
1993-1994 リーズ・ユナイテッド (ENG/42-8)
1994-1995 リーズ・ユナイテッド (ENG/41-6)
1995-1996 リーズ・ユナイテッド (ENG/36-5)
1996-1997 コヴェントリー・シティ (ENG/38-6)
1997-1998 コヴェントリー・シティ (ENG/14-0)
1998-1999 コヴェントリー・シティ (ENG/29-3)
1999-2000 コヴェントリー・シティ (ENG/38-11)
2000-2001 リヴァプール (ENG/30-5)
2001-2002 リヴァプール (ENG/25-0)
2002-2003 コヴェントリー・シティ (ENG/41-7、2部)
2003-2004 コヴェントリー・シティ (ENG/14-3、2部)
W杯出場
1990年 (1次リーグ敗退、出場なし)
タイトル
1991-92 イングランド・リーグ優勝
1992年 チャリティー・シールド優勝
 以上、リーズ・ユナイテッド
2000-01 UEFAカップ優勝
2000-01 イングランド・FAカップ優勝
2000-01 イングランド・リーグカップ優勝
2001年 UEFAスーパー・カップ優勝
2001年 チャリティー・シールド優勝
 以上、リヴァプール



溢れるキャプテンシーを発揮して、チーム・メイトを叱咤激励し、1990年代のスコットランドを支えた名選手。派手さはないものの、クレヴァーなプレイ、正確なプレイス・キックと非凡なパス・センスは「10番」の選手に相応しかった。

出身地でもあるマザーウェルのユース出身で、1985年にイングランドのレスター・シティに15万£で移籍すると、5年後リーズ・ユナイテッドに移籍するときには、移籍金は100万£になっていた。リーズのハワード・ウィルキンソン監督のもとで、主将を任されたマカリスターは、2年後、チームをリーグ優勝に導く活躍を見せた。また、リーズ在籍中のマカリスターは、監督とチームの間に立って意見を交換したり、チャリティ活動やスポンサーとの打ち合わせなどピッチ外での活動を組織化する仕事も積極的にこなし、それがリーダー・シップの陶冶に繋がっていった。

その後、スコットランド・リーグで黄金期を謳歌していたレンジャーズなど強豪クラブのオファーを断り、リーズ時代のチーム・メイトであったゴードン・ストラカンが選手兼監督を務める(当時)、コヴェントリー・シティという大方の予想を裏切る地味なクラブへの移籍を決断する。結局、コヴェントリー・シティではタイトルに恵まれなかったものの、代表では、主将として1996年欧州選手権イングランド大会、1998年W杯フランス大会出場にチームを導いた。

2000年、もはやヴェテランの域に入っていた彼に、リヴァプールからのオファーがあった。周囲の疑問の声をよそに、衰えを知らないプレイで、UEFAカップ、イングランド・FAカップ、イングランド・リーグカップの3冠の達成に大きく貢献。とりわけUEFAカップ決勝では、貴重な追加点となるPKを決め、延長にもつれたその試合で決勝点となるオウン・ゴールをフリー・キックで演出し、見事その試合のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。

その後、古巣のコヴェントリーに選手兼監督として復帰し、2003年、惜しまれつつ引退した。

代表でも長らくプレイしたが、W杯とは無縁で、1990年は出場機会がなく、1998年ではチームを出場に導くものの、怪我のため出場できなかった。1996年欧州選手権におけるイングランド戦のPK失敗は、ショックであったとはいえ、本人の自信は揺るがなかったであろうし、監督、チーム・メイト、国民の信頼も揺るがなかった。なぜなら1998年W杯出場は彼無くしてありえなかったからだ。

ギャリー・マカリスター(コ.gifコヴェントリー・シティ時代のマカリスター。

引退の主な理由は、乳がんである妻デニーズの看病に専念するためであり、マカリスターは最愛の妻、家族とともに同じ時間を過ごした。しかし、残念ながら、2006年3月3日に妻デニーズは他界。享年38歳という若さだった。

2008年には指導者としてリーズを率い、FLC昇格プレイ・オフまでチームを指揮した。

 



ギャリー・マカリスター③(1.gif代表デビューは1990年4月25日の東ドイツ戦。ついにW杯ではプレイすることはできなかったが、代表では常に絶大な存在感を示した。代表57試合のうち、31試合を主将としてプレイしている。


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謹賀新年


明けましておめでとうございます。

すっかり、コッチの2号店は、更新が滞っておりますが(汗)

いまだにPCの買い替えが終了しておりませんので。

今年は、もう少し頻繁に更新して、選手名鑑を本にしたいな~なんて考えとります。

間違って(汗)、こちらに来てくださった方、本店のほうにでもいらしてください。


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